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ガダルカナル島

ガ島の126名の日本軍戦死者

ガ島に飛行場を建設していた日本軍は、完成したと同時に上陸してきた米軍に奪われてしまった。昭和一七年八月七日のことであった。かくしてガ島奪回作戦が切って落とされた。軍首脳は敵はわずかであると判断、まず九百名の一木支隊が向かった。だが、上陸した米軍は戦車部隊、重砲部隊を加えた一万六千名であった。この一木支隊は上陸後すぐに全滅した。続く第二回総攻撃は五千名からなる川口支隊であった。彼らもまた、後一歩のところで、火力不足のため撤退した。ついに第三回攻撃には一万七千名以上の兵員が参加、総攻撃をかけ、いったんは占領したものの、すぐに奪われてしまった。翌年二月七日の撤収完了までに一万二千六百名が戦死。そのうち八千六百名が病死、餓死、行方不明者であった。


ガ島帰還兵の証言一


大発艇でガ島に向かっているさなか、敵戦闘機がおそってきた。バリバリッと低空で機銃を発射してくる。あっという間に死傷者が続発した。ギュウギュウずめの大発の中で、みな必死で反撃する。やっとの事で島に着いたとき動ける兵員は四分の一しか残っていなかった。制空権は完全に掌握されていた。


ガ島帰還兵の証言二


11月頃になると餓死者が続出するようになってきた。私は食べれそうなものは何でも食べた。蛇、トカゲ、カエル、オタマジャクシ、しかし12月になるといよいよ食べるものがなくなってきた。ついにシラミやウジ虫まで食べ出した。死はすぐそこまできていた。マラリア熱にうなされながら早く死んでしまいたいと思っていた。まわりの戦友はほとんど死んでしまった。


インパール作戦


太平洋戦争中もっとも愚かな作戦のひとつインパール作戦。あまりに長い補給線は必ず寸断される。無理な作戦とわかっていながら、押し通した軍司令官。そこには緻密で合理的な考えではなく、いわゆる義理人情的なものが存在していた。いったん動き出した作戦は簡単に中止することはできない。一軍司令官の判断ミスでは到底すまされない大きな犠牲がでた。戦死者数の詳細は不明だが、四万七千から六万五千人ではないかといわれている。

ではいったいどのような作戦であったのか。それは、防衛ラインの拡大というのが基本構想だが、あわよくばインドまで進行しようというねらいがあったものと思われる。参加師団は第15,31,33師団の三個師団。参加人員は最終的に八万八千名を数えた。作戦開始は三月なかば位からで、一ヶ月以内に攻略できるという考えであった。しかし五月の本格的な雨季になっても攻略できなかった。敵の攻撃は激しかった。雨は降り続き、食料はとっくに底をつき、伝染病が蔓延した。軍司令官は作戦不可能を訴える師団長全員を解任した。ようやく作戦中止命令がでたのは、七月なかば、前線に知らされたのは七月の末であった。ここから地獄の退却行が始まった。


インパール帰還兵の証言一

部隊が撤退することになった。しかし我々には突撃命令がでていた。敵陣の直前で待機していると、後方から激しい砲弾が飛んできて、目の前の敵陣地に炸裂した。撤退前に集中攻撃を行うのである。しばらくして攻撃がやんだ。隊長が突撃しようとしたとき、今度は敵が一斉に砲撃を開始した。物量にものをいわせた、すさまじい攻撃だった。やがて攻撃もやみ、進退きわまっていると後方から伝令がきた。「多数の死傷者がでたから、本体に合流して、撤退せよ」我々はほっとした。


インパール帰還兵の証言二


山を下っていると、下に小川が見えた。そこで休憩をしようと林の中を進んでいると、死臭が漂ってきた。小川にでてみると、なんとそこには二百人近い日本兵の死骸があった。しかし、そこだけではなかった。インパール街道には、累々と死骸が横たわっており、半死の状態の者は自殺用に「手榴弾をください」と訴えた。だめだというと「私を殺してください」と哀願してきた。長い軍隊生活の中でも、これほどの惨状は初めてだった。


英国軍将校の証言

ある街を通過するさい、そこに五百五十体の死体があるのを見た。その多くは石仏の周囲に集まっていた。そのような光景は、そこだけではなかった。あらゆるところに放置されたままのほとんど白骨化した死体があった。


硫黄島玉砕


斬り込みを行った日本兵の最後

昭和二十年二月下旬四百九十五隻の艦船が硫黄島に集結した。上陸部隊は七万五千名。これに対し硫黄島守備隊の日本兵は、二万一千名ほど。米軍司令官は「これだけの兵力なら五日で攻略できる」といった。しかし地下陣地を構築し、持久戦をもくろんだ守備隊は、三月二十五日のバンザイ突撃まで、決死の抵抗を続けたのである。米軍の死傷者は二万八千人を越えていた。


硫黄島守備隊の証言



上陸前三日間、艦砲射撃と航空機の爆撃が続いた。この攻撃で、山の形が変わっていた。私たちは必死の抵抗を続けたが、次第に追いつめられていった。壕にいると、マシンガンを撃ちながら、米兵が入ってきた。倒れたふりをして反撃しようするとあわてて逃げだし、こんどは火炎放射器と爆薬で攻撃してきた。その他にもガソリンを流し込んで火をつけたり、黄燐弾を投げ込んだり、ダイナマイトを仕掛けたりしてきた。私たちは壕から壕へと移動を続けた。



米海兵隊員の証言一



身を守る物や隠す物がない岩ばかりの島で砲弾が次々と降り注いできた。その砲撃はきわめて正確で多くの死傷者と精神異常者を出した。日本兵は突然現れて、攻撃してきた。あるとき日本刀を振りかざして、ある海兵隊員に斬りつけてきた。彼は反射的に手を出してさえぎろうとしたが、ひじまで、縦にまっぷたつにさけてしまった。また、日本軍の銃弾により、戦車内部の砲弾が炸裂し、中にいた乗組員は全員ゼリー上の液体と化していた。



米海兵隊員の証言二


我々はあるトーチカを攻撃した際、その中にいた日本兵の死体を隣のトーチカに放り込み、出入り口を塞いだ。その近くを基地として使っていたが、いつからか変なうわさが立ち始めた。出入り口を塞いだトーチカから日本兵の霊がこっちをのぞいているというのである。ちょうど一週間くらいたった頃、そのトーチカがいきなり爆発した。おそるおそる中を調べると、我々が放り込んだ死体のほかにもう一体の死体があった。彼は手榴弾で自殺したようだった。

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